「子どもに嫌われてもいい」と思っている教師

あるとき、「私は子どもに好かれたいとは思わない。嫌われたって構わないし、好かれるために教師をやっているわけではない。」とおっしゃる先生がいらっしゃいました。多くの先生は子どもに好かれたい、人気になりたいと思うはずなのに、「嫌われてもいい」なんてちょっとカッコいい感じがしますね。

子どもに好かれようと頑張っている先生がこの発言を聞くと、「もしかして自分がしているのは悪いことなんだろうか・・・。」と感じるかもしれません。では、子どもに好かれたいと思うのは間違いなのでしょうか?今回は教師が子どもに好かれること、嫌われることの良し悪しについて考えてみます。

 

 

 

欲求より責任を優先する姿勢は◎

子どもに嫌われるよりも好かれていたいのは人間なら当たり前のことです。それにも関わらず「子どもに嫌われていたとしても構わない」と言えるのは、人気を得たいという自分の欲求よりも教師としての責任を果たすことを大切にしようとする思いの表れだと思います。

忘れてはならない教師の本来の仕事は、子どもたちの健やかな成長に尽力すること、子どもの人格の完成に貢献することです。つまり、子どもに好かれているか嫌われているかということよりも、子どもの成長に尽力するという教師の責任が果たせているかどうかの方が重要なんですね。そのため、子ども自身の成長を考えることを抜きにして、ただ子どもたちに好かれようとしているのであればその姿勢は改める必要があります。ですが、そうでない限り子どもに好かれようとすることが間違っているとは言い切れません。

 

 

 

「嫌われてもいい」という教師の想い

「私は子どもに好かれたいとは思わない。嫌われたって構わないし、好かれるために教師をやっているわけではない。」

このような発言をしている教師の中には、こう言いながら好かれている教師もいれば、本当に嫌われている教師もいます。好かれている教師がこう言うのであれば、責任を優先させていてそのうえ子どもからも好かれているということなので非常に立派だと思います。しかし、本当に嫌われているという場合はどうなのでしょうか。

 

嫌われ方の程度は?

子どもに嫌われていると言っても、学級に何人か自分のことを嫌いな子がいるというのは仕方ない部分があります。なぜなら、人間には相性というものがあるからです。世の中には、どんなに努力しても自分を認めてくれない人が必ずいます。ですがそれと同時に、無条件に自分を評価してくれる人も必ずいます。それは学級の子どもたちも同じです。当たり前に毎日を過ごしているだけで自分のことを慕ってくれる子もいれば、どんなに歩み寄ろうと努力しても自分を嫌う子がいるものです。

このように、相性を考えると学級の1割程度の子どもから嫌われるという状況はどの教師にも起こりえます。それは仕方がないことなので、特に気にする必要はありません。しかし、学級の半数近く、またはそれ以上の子が自分のことを嫌っているというような場合には話が変わってきます。これは相性で片付けられる問題ではなく、その教師が嫌われやすいということを物語っているからです。

 

 

“正しい”ことへのこだわり

「子どもに嫌われてもいい」と言っていて、本当に嫌われやすい教師にはこのような特徴があります。

  • 子どもに嫌われているという自覚がある
  • その状況を改善する気がなく、むしろ誇りに思っている

「嫌われてもいい」と言う教師は、子どもから嫌われているのになぜ誇りを持っているのでしょうか。このような教師を見ていて私が特に感じたのは、間違ったことは言っていないということです。嫌われやすい教師というのは、細かいことまでよく気が付き子どもにしっかり指導しようとする姿が特徴的です。本来あるべき正しい姿を子どもに身につけさせようと人一倍気を付けています。「自分は間違ったことは言っていない、正しい指導をしている。」その自信こそが、「子どもに嫌われてもいい」という言葉につながっているのです。

「嫌われてもいい」と言う教師は子どもに嫌われることに抵抗を感じるのではなく、むしろそのことを誇りに思っています。だって、間違ったことは何一つ言っていないのだから。子どもに嫌われようが、間違ったことを教えるつもりはない。だから、嫌われていてもいいのだ。

 

 

時間が経つと感謝される

嫌われやすい教師の言葉に間違いはありません。子どもの将来を考え、その子に必要なことを懸命に指導しているだけです。そのため、担任をしているそのときは嫌われていたとしても、離れた後に自分のことを好きになる子が現れることがあります。学級にいるときは「うるさいな、面倒だな。」と思っていても、教師の指導に間違いはないので「先生は自分のために言ってくれていたのだ。」と気が付くというパターンです。

「嫌われてもいい」という教師の指導というのは、間違ったことは言っていないが何となく受け入れ難い。このような指導をしているのが特徴です。その教師と離れてみると正しさに気付くのですが、近くにいるときは嫌いになってしまう。一緒にいるときは反抗したくなるのに、離れてみるとありがたさを感じる…母と子の関係性にすごく似ていますね。

 

 

 

教師が嫌われることは教育的に問題ない?

このように見てみると、子どもに嫌われたとしても間違ったことさえ言っていなければ問題は無いように思われます。むしろ母子関係で考えると心温まるエピソードです。しかし、教師と子どもの関わりは学級であって家庭ではありません。教育的に見て子どもに嫌われるということに問題がないかを考えていかなければならないのです。

 

嫌いな人間と過ごす時間を考える

担任になると、教師は嫌でも受け持った学級で1年間を過ごすことになります。そしてそれは子どもたちも同じです。担任を選ぶことは出来ないので、嫌いな先生だったとしても我慢して1年を過ごす必要があるのです。子どもにとって、好きな先生と過ごす1年と嫌いな先生と過ごす1年はどちらが幸せでしょうか?

もしかしたら、嫌いな人との関わりから人間関係を学ぶことだって出来るという意見もあるかもしれません。反面教師という言葉もあるように、嫌いな教師からも子どもは何かを学んでくれることはあり得ます。しかし、嫌いだと感じている時点で子どもの心にはマイナスの感情が溢れているのです。嫌いな教師の下で過ごす子どもは、少なくとも1年間心にマイナスな感情を抱えることになります。

好きだと思える人から言われた言葉やしてもらった行為は人生に対して確実にプラスの感情をもたらしますし、それが子どもの一生を支えることにもなるかもしれません。好きな先生と過ごした1年間と嫌いな先生と過ごした1年間では、ふり返ったときの輝きが違います。毎日の学校生活の中で教師の言動から様々な感情を持ち、その積み重ねによって1年間の色合いが変わってくるのです。

 

 

子どもの人生を狂わせてしまう

子どもに嫌われることで最も深刻なのは、子どもの登校意欲へ影響を及ぼすことです。出欠表をデータ化して見てみると、嫌われやすい教師の学級ではしばしば新たな不登校を生み出していました。そして好かれている教師の学級では、不登校が出るどころか改善されることが多かったです。

このように、先生が好きか嫌いかは子どもの登校意欲に大きく影響します。好きな先生だと毎日学校に行くのが楽しみになりますし、嫌いな先生だと何となく憂鬱な気持ちになるのです。実際に私が受け持った子の中でもそのような気持ちを作文に表現していた子がいます。

学習、運動、友達関係…学校に行くと子どもたちを多くの課題が待っています。時には大きな壁にあたって悩みを抱えることもあります。ですが、その悩みはどれも子どもの成長につながっています。しかし、不登校になってしまうとトラブルさえ起こりません。不登校になってしまった時点で、その子は多くの成長の機会を奪われてしまうのです。学校に行かない不登校の原因は色々とありますが、もしもその理由の中に「先生が嫌いだから行きたくない」という要素が含まれていたとしたら、教師として子どもの人生に大きなマイナス効果を与えたことは決定的です。

 

 

「嫌いな先生」の言葉は子どもの心に届かない

たとえ不登校の子を出さなかったとしても、子どもに嫌われているということは教育的に見てメリットが少ないです。なぜなら、嫌われているということは教師に対して子どもの心が閉ざされている状態だからです。

人間は、嫌いだと思った相手の言うことはシャットアウトしてしまいます。子どもと接する中で嫌悪感を与え関係をシャットアウトされてしまうと、教師の言葉は子どもの心に届かなくなってしまいます。子どもの心に言葉が届かなければ、いくら指導しても一方通行で終わってしまいます。反対に好かれているということは、子どもの心がいつも教師の方に開かれているということです。教師のことが好きであれば、子どもは教師の言葉に耳だけでなく心を傾けます。

子どもが耳だけでなく心を開いて教師の話を聞いているかどうかは、横目で見ているだけでは分かりません。本当のところは子ども本人にしか分からないのです。ですが、子どもが教師のことを心から慕っている様子があれば心を開いているはずです。そして子どもが心から慕うのは、嫌いな教師ではなく好きな教師です。

 

 

 

積極的に嫌われる必要はない

教師の仕事は好かれることではなく子どもの成長に貢献することです。子どもを育てることを抜きにして、ただ単に子どものご機嫌を取っているだけではいけません。しかし、その責任を果たそうと努力していることを前提として好かれる教師と嫌われる教師の両者について考えたとき、教育的に望ましいのは好かれる教師の方です。「嫌われてもいい」という覚悟で指導に臨むのは素晴らしいですが、積極的に嫌われる必要はありません。

 

正しく、そして好かれる教師に

「だけど、自分は間違ったことは言っていない。」その通り、教師として正しくあることは絶対に必要なことです。しかし、嫌われている状態をそのまま放置しておくのは良くありません。目指すべきは、正しくそして好かれる教師であること。そんな姿を目指して教師は日々努力していかなければならないのです。

教師が“正しさ”を失ったとき、教育は崩壊します。教師は正しくなければなりません。ですが、正しくあることと正しさを押し付けることは違います。「間違ったことは言っていないのに子どもから嫌われる」という場合、子どもの意志を無視して一方的に押し付けるような指導をしている可能性があります。

 

 

しつけが1番難しい

子どもを変えるために大切なのは、子どもに教師の正しさを納得させることです。「そんなことは無理だ!」と思うかもしれませんが、そのくらい教師の仕事は難しいということを知ってください。どちらにせよ、無理矢理押し付けた指導に効果はありません。その場では直すかもしれませんが、心に響いていなければ本当の意味で改善されることはないのです。

また、「言い続けていればいつか伝わればいい。」という考え方もありますが、その場合でも嫌われることによって他の部分に弊害が生まれることを忘れないでください。ベテラン教師でもしつけが1番難しいと言います。それくらい、子どもを望ましい姿へ変えることは大変なことなのです。

 

 

“正しさ”にこだわり過ぎない

子どもに“正しさ”を伝えていくことは非常に重要で、これをやめるのはいけません。ですが、“正しさ”にこだわり過ぎるのもいけません。人間は完璧な生き物ではなく、みんながみんな正しく生きられるわけではないということを忘れないでください。

自分の短所との上手な付き合い方を教える、これも1つの教育です。また短所を改善するのではなく長所を伸ばし、人と協力し合いながら生きていくという方法もあります。“正しさ”は1つとは限らず、子どもの数だけ無限に存在しているのです。

「嫌われてもいい」という意志を貫くのは簡単なことではありません。それだけのモチベーションを持っている先生は、さらに視野を広げてこれまで以上にたくさんの子どもを幸せにしてほしいと願います。